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今こそ訪れたい平和記念公園と広島グルメ





平和記念資料館
祖父母が生きた戦後広島の姿を求めて
「ゼレンスキーはたいした男よのう」傘寿を迎える祖父母が涙を溜めた目で異国の大統領を称賛した。
大統領の「今のウクライナは原爆投下直後の広島に似ている。だが今の広島は見事に復興した。私は必ずウクライナを広島のように復興してみせる」という言葉に感銘を受けたらしい。寡黙な祖父母の見せた涙に、私は広島出身の祖父母を持ちながら、あまり関心を持ってこなかったことをちょっとだけ恥じた。
今回の旅のきっかけは自身のルーツ探しというべきか、大人の社会見学というべきか、ともかく私はその後1週間もしないうちに広島行きの新幹線に飛び乗った。
10月を迎えた広島市は、いまだ暑さの中にあった。もちろん最初に訪れるべきは平和記念資料館であろう。
使うのは路面電車だ。バリアフリーの最新型の列車が並ぶ中、ポツンとタイムスリップしてきたかのような古い車両がある。原爆投下を乗り越えた車両は5台、いずれも現役だというから驚きだ。当該車両がそれに当たるかは別として、私は順番を待ってその車両を待つことにした。古い車両の中は、使い込まれた金属の鈍い輝きに満ちていた。
以前平和記念資料館を訪れたのは修学旅行であったか。恐怖感に支配されていた当時と比べ、落ち着いて展示を見ることができた。展示内容が変わっていた気がするが、気のせいではなかった。2019年と2024年に大幅なリニューアルが行われているそうだ。
常設展に置かれていた日記、止まったままの時計、一面の焼け野原の広島市の写真。昔の人の達筆さには驚かされる。市民は突然の原爆で殺されたのではない。太平洋戦争末期のギリギリの生活と原爆投下、その後の長い後遺症との闘い。原爆は長い時間をかけて市民を蝕んでいったのだ。あの焼け野原で佇んでいる子は祖父だったかもしれない。後遺症で亡くなった子は祖母であったかもしれない。死んだものと生きのこったものを隔てるものはないだろう。市民は等しく8/6に人生を変えられてしまったのだ。
帰途はタクシーを使った。タクシーの窓から見えるのはビルばかりで青空までたどり着けない。人口100万人と言われる市民に、美しい公園、いまここにあるすべてが奇跡なのだ。まして、焼け野原からがれきを片付け、一軒一軒家を建て直し、街を立ち上げてきた世代にとって、あるいは戦火の中にある国の代表者として、現在の広島市の繁栄への想いはひとしおであろう。
横川沿いには小さな船が停泊している。あれは牡蠣漁ですかと問うと「さあ、知らんねえ。でもせっかく来たんじゃけえ、牡蠣料理は食べていきんさい」と言われた。
駅前で牡蠣料理の専門店に入った。広島湾での牡蠣漁はなんと16世紀にまでその歴史をさかのぼるらしい。味はもちろん美味だった。
旅程
日次 | 日程 |
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1日目 |
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平和記念資料館
予算 | 25000円~(1名1室料金) |
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所在地 | 広島県広島市中区中島町1-1 |
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